趣味を趣味のままにしておけなくなる「呪い」について
文章を書くのが苦手だ。
なんて思ったのはつい最近のことである。
もっと言えば、「面白い文章」を書くのが苦手だ。
夏休みの読書感想文。期末試験のレポート。取引先とのメール。
そういった「型にはまった文章」はスムーズに書けるし、特段困ったことはない。
だが、その延長線上に「自己表現」が少しだけ重なっていた。
文章を書くことは好きだったのだ。
小説。詩。日記。人よりほんの少しだけ、「書くこと」を好んで自主的にやっていた。
それでも。
今になって、「書くこと」への確かな苦手意識がある。
目的と手段が逆になってしまったのだ。
書きたいから書く、ではない。
「"読みやすく" "読み手の共感を得られる" "構成の整った" "独自の視点で" "とにかく心に留まるような"ものを書きたい。」
何においても「読み手」を想定してしまい、ガッチガチに動けなくなっていた。
他にも絵を描くこと、歌を歌うこと、なんでもない自己満足のためにやっていた「趣味」全てにこのような「呪い」が付きまとう。
私は「表現者」なら誰しもが経験するであろうそのジレンマを「呪い」と呼んでいる。
誰かに否定されたわけでもない。批判されたわけでもない。
全て自分で自分にかけた呪いである。高すぎる理想が自分の首を絞めるのだ。
高い理想を己に課すのは、高い自己評価の裏返しなのだと思う。
私は私が「出来る」人間であって欲しかった。「頑張ればどうにか出来るヤツ」なのだと信じていたかった。
平たく言えば「本気を出せば何でも出来ると信じていたいクソガキ」なのであった。
こういうことを言うやつに限って、本気など一度も出したことはないのだろう。
私がそうだ。お気付きの通りこれは戒めの記事である。
それゆえ、私が「面白い文章」を書けるのかどうかは分からない。
絵も歌も何においても同じで、本気でやろうとしたことが無いからである。
加えて一歩踏み出すことに苦手意識もある。
保身的で打算的なヒキニートメンタル盛り合わせセットみたいなのが私だ。
良いものを作ろうと、読み手の反応を想定することは決して悪いことでは無い。
必要性に気付いていながらやる前に諦めてしまうことこそが罪であり、
傷つくことを恐れて予防線を張るために自罰を与えるような強がり野郎には傷つく資格も無いのだ。
何かを選択し、行動することには覚悟と責任が伴う。
それを放棄してはいけない。見て見ぬふりをしてもいけない。
そうでないなら、自分を罰する資格も無い。
まずは自分で自分にかけた呪いを解くために、何かしら書いて記録していこうと思う。
自己満足のためにやってることで満足できなかったら本末転倒なので、まずは自分のために書く。
自信は無いけどやらないよりマシ。
「やらない勇気」なんてのはトンデモ言い訳量産ポリシーだったな。
それが必要になる時もあるけど、本当に必要なときは滅多に無いから。
頑張ることを頑張ろうということで。
よろしくお願いします。
ここでは赤街を名乗りますが、呼び方は何でも良いです。
名前もまた呪いの一種なので、どう転んでも良いようにぼんやりさせておきます。